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▲大野さんの乗馬すがた
馬がつないだモンゴルとの縁
──今相撲界で活躍中の横綱「朝青龍関」の出身国であるモンゴルとの関わりが深いそうですね。その辺について、お話をお聞かせください。
■大野: きっかけはやはり馬なんです。子どもたちの活動の中に馬を導入しようとやっているうちにNHKのシルクロードという番組を見ていたら、画面
の中の中国の奥地でのお祭りで、我々のところで育てているのと同じくらいのモンゴルの子どもたちが馬に乗って、30キロも駆けていたんです。あれを見た途端に僕は、できて五年だったのですが、我々のポニー広場の子どもたちもできると思ったんです。そこで、どうしたら子どもたちをあそこに連れ出せるだろうかと考えました。
それで、「馬と人間の文化を軸にした日中少年少女総合交流」の企画書を持って六本木にある中国大使館の教育部を訪ねて行ったんです。そうしたら日本語ぺらぺらの耿墨学一等書記官が応援してくれました。後に文化局長になった偉い人だったんですが、「大野さん、これはすごいおもしろい」って、「わたし応援するから実現しましょう」と言っくれました。これが、そもそもの発端でした。
僕はテレビで見たあの場所に行きたいと思ったので、先に一度行かせてくださいと申し入れて、1983年、新疆ウィグル自治区のウルムチから天山山脈を越えトルファンまでの大キャラバンをやったんです。行った子どもたちの数は12、3名だったんですが、警察、軍隊から、もうすごい支援隊がたくさんついてくれました。
そんなことは中国の人だってやらないと言われたんだけど、天山山脈の東のはずれに博格達峰(ボクダ山)というのがあって、標高四千五、六百メートルの鞍部をウルムチからトルファンまでを、初めて「モンゴル、馬」という目的で抜けたのが、僕たちだったんです。
ペレストロイカで道が開く
中国内蒙古の大草原を馬で駆けたりするようになるのはもっと後なんですが、天山超えは死に物狂いだったんです。「来年また来るか?」と言われて帰ってきても、「うーーん」というような感じでした。結局、「内蒙古には大草原があるから、そっちに行ったら平らで安全だよ」と教えてもらって見に行ったら、大草原、草の海だったんです。で、毎年。夏、子どもたちを連れて行って、本当に大草原を走り回っていました。そのうちにモンゴルのことを勉強しましたから、モンゴル文化圏というのは、中国の「内蒙古」とか「モンゴル国」とか、ロシア、ソビエトの方に「ブリアード・モンゴル」というのがあって三つに分かれている。そして文化はモンゴル国が中心だとわかってきました。
そこに行きたいと思ったのだけれど、中国とは仲が悪いんです。ソビエトの軍隊がモンゴルの中国国境に張り付いていました。だから中国の軍隊も張り付いていた。我々が外モンゴルの国に行くというのは、バイカル湖のほうを回ってイルクーツクから行って入っていかないとだめで、これじゃあ無理だと思っていました。ある日新聞を見たらゴルバチョフさんなんだけど、ペレストロイカとかいって、もう俺たちのところで精一杯で、モンゴルは勝手に自由にやりなさいということになっちゃって、ソビエトの軍隊が中国国境から引き上げたんです。中国の軍隊も引き上げて、北京からウランバートルまで列車で行けるという記事があったんです。内蒙古から来ていたソイルトがその当時職員でしたから、「こんな記事があったけど読んだ?」と聞いたら、「何ですか?」。一緒に見て、「うん、行けそうだ」「行こう、行こう」と、すぐ行ったんです。
中国内蒙古からモンゴル国へ
モンゴル国は70年間社会主義人民共和国でしたが、自由主義経済に切り替える、市場経済に切り替えるといって、モンゴル国になったんです。でも、それはトップの指導者がそう言っているだけで、決議はしたけれど、70年間の社会主義から変身は並大抵ではない。人間同士の不信感、チームで仕事をするのもへたくそ、契約観念だってあんまりない。随分、我々は泣かされました。俺とだけ組めば解決してやると、言うわけですが、随分無駄
なこともしました。一人一人と会うと、いずれも素晴らしいし、草原はいいし、馬はいいしというわけです。
僕が中国のほうに嫌気がさしてきたのは、中国のモンゴル族というのは虐げられているわけです。内蒙古自治区というのがあっても、ほとんどが漢民族なんです。モンゴル族というのは5〜6パーセントなんです。その人たちは、肩寄せあって自分たちの言葉の小学校を細々と経営していたりして、主要産業は漢民族が独占している。それに反発してちょっと抵抗したりすれば、すぐ強制収用所みたいなところに送られて、出てきたときには精神に異常をきたしているみたいなことも起きています。1991年からは、モンゴル国に行くようになりました。
モンゴルに教育の種を蒔く
そして、社会主義でやるとこんなことになるなと思ったのは、学校は荒廃、知的階級も苦労していました。学校も半分潰れていたし、先生だって何ヶ月も給料を貰っていなかったり、旅行社にちゃんとお金を払っているのに上手にやってくれなかったり。だけど、そういう牧民の人たちと話をしているうちに、我々でできることは何かと考えました。学校が潰れた理由というのは、先生の給料が足りないということだと聞きましてた。「いくら?」と、聞いたら、「月7千円」、7千円くらいだったら僕たちが送りますと、その場で決めたんです。二人分の先生の給料を送るから、100キロも離れた学校に子どもたちを入れて、そこが半分しか授業をしてくれないなんていうのはやめて、自分の近くに寺子屋をこしらえたらどうですか、日本でそういうシステムがある。ゲルの一部分を教室にするとかして、先生は二箇所くらいそこを行ったり来たりして教えてあげるというようにして、やったらどうですかと提案し、始まりました。寺子屋が、ものすごい評判になりました。
子どもたちも勉強して、先生も本当に一生懸命教えたんです。モンゴルには県が27郡とかあって、僕たちは中央県だったのですが、他の郡がそれを見て「うちでもやりたいから応援してくれ」と言って来ました。でも、これはちょっとハーモニィーセンターの力に余る。困ったなと思っていた時、郵便局の国際ボランティア貯金を知ったんです。で、申請を出したら、どんと応援してくれたんです。500万円かな。それを全部送ってあげて、27郡での寺子屋を始めたんです。
ものすごく喜ばれました。文部省や教育委員会と一緒になって、ソイルトがこの計画を担当しました。そういう人に車を買ってあげたり、連絡をして給料を払ったりするようにして、我々が全部やるんじゃなくて、信頼できる人に任せて自分たちでやってください、という仕組みにしたんです。これがまた良かったんです。向こうの教育力も5、6年経ってアップしてきたので歴史的使命は終わったということで今はやめて、今度は年上の青年たちの職業訓練をやっています。
日本語学校の誕生
毎年モンゴルに行っているうちにただ草原を馬で走るだけじゃなくて、まず、今のような寺子屋ができました。それで行った時に言葉の問題があったんです。モンゴル語ができるのは、誰もいないわけですから。中国語は通
じないし、英語もダメです。ロシア語か、ドイツ語か、モンゴル語なんです。我々は最初20人か30人連れて行ったのかな、言葉はぜんぜん通
じない。団長の僕ひとりに通訳がついたって、みんな欲求不満になっちゃうでしょう?それで国立のモンゴルの大学の日本語学科の学生に「アルバイトしない?」と、ソイルトが交渉しました。一日5ドルで我々が滞在している間中、一緒にやりましょうということで。生の日本語に触れられるし、いい勉強になるんじゃないかな、彼等10人のうち7、8人来てくれました。そうやっているうちに、彼等のたどたどしい日本語を通
してモンゴルのその当時の青年が、何を望んでいるのかということが、だんだんわかってきました。日本語をしっかり教えてくれる場所が欲しいのだというのがわかったんです。
ならば簡単だと。日本で学校を作るといったら、いろんな役所の制限などがあるけれど、学校のそもそもは、教わりたい人がいて教えてあげられる人がいて、そこそこの場所があれば学校なんてできるんだからといって、学校を作っちゃった。先生を日本から連れてきたら、経費も何も大変だから、ここにいる日本語を教えられる人を探す。それで外務省で日本を担当していてリタイアした人、おじいちゃんとか、国立大学で日本語を教えていて退職した人、そういう人にもうひとふんばり一、二年やってくださいとお願いしました。学生たちに希望者がいるというのは、わかっていましたから、まず先生です。
それから、非常に幸いなことに学校がガラ空きだったんですよ。マルクス・レーニン主義や社会主義系統の指導者養成大学なんていうのは、全部潰れてたんです。校舎はでーんとしていて、安く貸してくれそうなところを訪ねていって、埃だらけだったんですがそこを2教室だけ貸してくださいといってお金を払って、家賃だって日本からいえばタダみたいなものですから。電気がつくのか、トイレがちゃんと機能するのか、机はこれを借りられるのかという準備は、僕らできちんとやって2教室で日本語学校をこしらえたんです。
だけど、本気で勉強するから、すごいことになったんです。20人ずつ2クラスで40人募集したら、300名近い応募があった。それで一次試験、二次試験、三次試験で40人に絞った。入学式のときに僕は行ったんです。暗いところで泣いている学生がいるんです。何で泣いているのかと聞くと、「不合格だったけれどちゃんと授業料を払うから、座る場所がなかったら立ってでもいいから中に入れてくれ」と言う。そういうのは、日本の学校ではいません。僕は「みんな可哀想なんだから入れてあげたら」って言ったら、「何を言うんですか、そういうことをやったら収拾がつかなくなるから、今年は40名といったら40名でぴしっとやる。今年だけじゃなくて、来年もチャンスはあるんだから、来年おいでということも大事なことだ」と言われたんです。だけど、40名では可哀想です。まあ、最初のうちはそれこそ大変でした。僕も時々行ったりして、そのうちに任意の日本語学校が注目を浴びて、これは短大にしたほうがいいということになりました。
たとえば、日本に留学したいという希望があっても、モンゴルの日本語の一各種学校の生徒が日本の大学に入りたいといっても格が違うとダメだから、名前だけでも「大学」となっているほうがいい。短大にしたほうがいいという話になって、申請書を出したら短大になっちゃったんです。四年目には、今度は文部省から四年制の申請書を出したらどうかと言われました。当時の文部大臣が、純粋で穏やかで人望があるトムロウチルさんで、国会議長や大統領の顧問をやっていたような人なんですが、申請を出せば大丈夫だっていうから、出したら四年制の大学になりました。1996年のことです。
それがモンゴル国ウランバートル市の「モンゴル文化教育大学」(現地名ソヨルエルディム大学)なんです。僕が創設者ということのようですが、創設者といってもそんな大げさなことではありません。最初のうちは、僕が書類を提出する時の責任者になっていたらしいんですが、僕はそんなことで行ったり来たりするのはできっこないし、実質的な地元の一番信望のある人が大学をやればいい。「ソイルトさん、もう一人でできるよ、ハーモニィーから離れて、いつも僕の指示を受けてやるんではなくて、独立したほうがいい」と、言って彼に全部渡したんです。彼は学長になりました。彼は非常に優秀なんです。内蒙古の師範大学をトップで卒業しています。
ソイルトさんとの絆
──そのソイルトさんですが、彼がハーモニィーセンターの職員になる前、大野さんとどういう出会いがあったのでしょうか?
■大野: いい出会いがあったんです。内蒙古に子どもたちを連れて行った時、僕は旅行社のスタッフに、通
訳一人だけではダメ。子ども30人連れてきているんだから、人柄がよくて日本語がバッチリで、一緒に遊んでくれて、きちんと向こうでの文化とかそういうことも伝えてくれるそういう通
訳を子ども3、4人にひとり、お金を払うからつけてくださいとお願いしました。で、行ってみたら、来てくれたのがほとんどが大学の教授だったんです。その中で、一番骨身を惜しまずに働いてくれて、子どもに人気があって、がんばったのがソイルトさんです。それで、また翌年も一緒にやってと、付き合いが長くなった。そのうち彼が日本に留学したいと言い出して、自力でやりたいとはいうものの、彼にはお金がないわけだし、それは無理。働きながらやるなんてそんな甘くはない、日本語ができるといったって、日本の生活になじむには何年もかかるんだというようなことを言っていたら、いつの間にか、内蒙古に行く毎に日本語を教えに行っていた先生のお嬢さんと結婚したんです。で、日本に来ましたというわけです。
はじめ、彼は長野の日本語学校で、中国の人たちに日本語を教えたりしていたみたいです。だけど、僕たちがモンゴルにどんどん送り込んだりするような計画を立て始めた時だったので、うちのスタッフになって、東京で仕事をしたほうが動きがいいんじゃないのといって、給料は安くなるかもしれないけれど、思う存分力が発揮するには東京を基盤にしたほうがいい。で、やってもらうことは、中国とかモンゴルとの交流の仕事で国際部というのをこしらえて、そっちの担当にということで彼をハーモニィーの職員に迎えました。そして10年間やってもらいました。
中堅で入った人並みの給料を払っていましたから、その投資がハーモニィーにとっては一番大きな投資でした。国内のハーモニィーセンターの仕事はさせませんでしたから、全部、国際部の仕事をしてました。そのおかげで、学校もできちゃったし、モンゴルの騎馬トレッキングの仕事も彼が担当しました。しかもスタッフの中でソイルトが一番馬力があった。で、なんだかんだというときには、僕と二人で行くわけです。ハンコを押したりサインをしたりするのは僕がやって、あとはほとんど彼が全部やった。よくやってくれました。随分、古い付き合いになりました。
ソイルトのすごいと思ったことは、通訳の中には、僕が言ったことで向こうに具合の悪いようなことがあると、それを変えて通
訳したり。向こうの人が言ったありのままを伝えてくれればこっちは判断する能力があるのにも関わらず、わかったような力不足の判断力で向こうの人の言っていることを曲げて通
訳するような人もいたんです。彼の場合は、プロに徹しているから、自分の考えがどうあろうと、そんなのは関係ない。この人が言ったことはちゃんとそのまま通
訳すると最初から言うわけです。そうすると、向こうの人もこんなことを言ったら大野さんを傷つけるかもしれないみたいなことだって、全部言うんです。却っていいんです、そのほうが。向こうの人も、直接こっちの気持ちがわかる。通
訳で変に料理しなかったのは、彼だけでした。彼にとってどんなに不都合なことがあったとしても、彼は全部そうやったんです。
仕事の上での指示を出したことは100パーセント、100パーセント以上、工夫したりなんかしてやるという力は信頼していたし、仕事だけじゃなくてプライベートでもほとんど一緒ですから。よくやったと思います。それから、言葉の上でも誤魔化しはしなかったです。だから、彼への僕の信頼は絶大なんです。彼も僕を信頼しているんじゃないかな。
モンゴルの人との付き合いはそういうようなことでしたけれど、別
な言葉でいえば、中国の人たちに言わせれば、モンゴルに行けば「あれは俺たちの国だ」。ソビエトの人は、「あんなのは、ひとひねりだ」と思っていたはずなんです。だけど、あのうるさい大国に囲まれて、そういう意味では一ひねりかもしれないけれど、地勢学上からいうとモンゴルがいいクッションの役目を果
たしたんです。中国とソビエトはいずれ喧嘩するかもしれない。そういうアジアの火薬庫の真ん中にある非常に大事な緩衡地帯だと僕は思っています。モンゴルの人は、我々日本人に対しては、中国人やロシア人に対するのとはまったく違った親近感を持って接触してきます。実際に、今、一番彼らを助けているのは日本なんです。そういうのも、わかってきていると思うんです。
日本の国がモンゴル国と仲良くする、何かいい関係を持っているということは、東アジアの安定にも寄与すると僕は思っているんです。人口は少ないんです。300万人に欠けるくらいだと思います。だから中国のどこかの省を応援するなんていったら、もう人口も多いし大変な話ですが、モンゴルの場合だったら、本当に一人一人としっかり、それこそ顔の見える付き合いが可能なんです。寺子屋、そして日本語学校、大学と発展してきました。これも馬が縁だったわけです。
【参考サイト】
●(財)ハーモニィセンターのモンゴルとの交流経緯
((財)ハーモニィセンターWEBサイト内)
●「疾走〜娘の遺志を乗せて〜」日本乗馬療法協会 長友久美子さん
(財)ハーモニィセンターのモンゴルでの活動を通
して・・・
(niyoniyo/Network for Interaction by Your Originalities WEBサイト内)
● 「モンゴル民族音楽団コンサートツアーin熊本」(niftyココログ)
川のおじさんが仕掛けたモンゴル文化教育大学所属
「エヘシゲレン民族音楽芸術団」コンサートのいきさつ・・・
●ウランバートルお楽しみ散策「文教祭」〜モンゴル文化教育大学の日本語発表会
(個人サイト)
●モンゴル政府観光局の公式日本語サイト
●中国・モンゴル/内蒙古自治区(KKユーラシア旅行社WEBサイト内)
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