『神風(かむかぜ)の伊勢の国は
 常世の波の敷浪の帰する国
 傍国の可怜(うま)し国なり
 この国に居らむと欲(おも)ふ』

(この神風の伊勢国は、常世の波がしきりに打ち寄せる国である。
 大和から片寄った遠い国で、美しいよい国である。この国におりたいと思う)
       「倭姫命世記より 現在の伊勢神宮の場所を定めたときの神託」

伊勢湾は、黒潮流れる太平洋の熊野灘につながり、主なだけで21もの河川がミネラル成分や養分を運んでくる。しかも湾の入り口がせまい。美味しい海草やエビ類、魚貝がとれるのは、こうした要因がからまってのことだ。土壌豊かで風光明媚、海の幸に恵まれたこの地を、天照大御神が選ばれたのも無理は ない。

  宮川・勢多川・五十鈴川の河口部に位 置する二見町今一色(いまいしき)。明治まで、日常的に海の幸を伊勢神宮に献上してきた「海民」の郷だ。遠浅でなだらかな海岸線や砂泥の干潟を生かした、海苔やアオサの養殖、アサリ、バカ貝などの採貝漁が盛んな二見町漁業協同組合(組合員約200名)に、組合長の濱千代利弘さんを訪ねた。

 

海苔の養殖事情

海苔の養殖は、国から一時占用許可を得た区画で行われる。毎年9月に「海苔ヒビ」といわれる支柱を立て、10月に20℃以下になった「アミカケ」。これは種付けした海苔網や、胞子入りの牡蠣ガラを取り付けた網をノリヒビに結んで広げる作業だ。そして翌3月に海苔摘みと加工、終われば「ノリヒビ」を撤去する。

海苔は赤潮や海水成分・温度の影響をもろに受ける。台風もあれば病気もある。 その上、摘み取りを繰り返すと海苔の質が低下するのだそうだ。そこで一度張った網 の一部を回収して冷凍保管し状況をみて張り直す「冷凍網」や、張った網に海水を噴 射して成長をうながし汚れを落とす「網洗い」など様々な技術が開発されている。

二見で美味しい海苔が採れる秘密

色、光沢、風味、やわらかさが命の海苔市場では、網から最初に摘む「初摘み」が最高級。種苗の温度管理や、ここぞとみて摘む時期などが品質を分けるそうだ。海苔は川の水が入り込み、適度な塩分濃度があるところ、流れや潮が激しいところを好む。二見のように条件が当てはまる「支柱式養殖法」だと、干満の差が大きいほど網が干される時間が長くなるので、網に余計な藻が付かず海苔の純度が高くなる。又、遠浅の干潟は太陽に当たる時間が長いので、ノリに含まれるうまみ成分が増大するかわり、赤い色素が増え、見た目には「濃いめの茶色」になるのだとか。今まで「真っ黒」に惑わされていたことを反省する。

「酢の物・味噌汁にお勧め・アオサ」

全国生産量の7割近くを三重県がしめるアオサは、入り江近くで養殖される。水温が低いと伸びないし、強い流れや波があると千切れてしまうからだ。木杭に固定張りされたノリ網全体が、若草色に変わる1月から2月にかけ収穫される。安価で海苔とまた違った普段着の味、香りだ。

三重県は生産地トップ3・アサリ

全国的に見ても、収穫高がピーク時の約25%に落ち込んでいるアサリだが、「二見のアサリは、実が大きくて最高です」と漁業長は太鼓判をおす。アサリは3〜4月がシーズンで、遠浅の砂泥地、塩分適度な汽水域を好む。環境のよいアサリは殻がうすくて模様がはっきりしているが、しばらくすると色が薄くなってくるとのこと。

 

産業系排水と生活排水

伊勢湾に川から流れ込む汚れや負荷の大半は、産業系排水と生活排水で、特に合成洗剤等はチッソやリンなどの栄養塩類を多量 に含む。過度な栄養は海の生態系の環境バランスを壊し、赤潮などの原因となってしまうのだ。しかも伊勢湾は底がすり鉢状なので、化学物質や汚れが溜まりやすい。台風対策が優先して遅れたといわれる三重県の下水道普及率は、全国平均63.5%に対し 28.8%(平成14年度) 。現在、人口が密集する川の下流域を対象とする大規模な宮川流域下水道設備建設が進行中だ。

流木   

2004年、宮川上流域に破壊的な被害を与えた台風21号は、「よういわれん・・ ・」と漁業長が嘆息するダメージを二見漁協にもたらした。宮川上流からの流木が、 台風翌日には湾を横切って知多半島沿岸に延長10キロにわたって漂着したほどなの だ。 海苔の漁場をびっしり覆う大量の流木に、網も船も壊れた。船も出せない有り 様の中、自腹の撤去作業が始まった。根こそぎ流れてきた木はからんで始末におえな い上、船のスクリューに引っかかる。ようやくの思いで、宮川大橋下流の集積所に運 んで裁断し、県に処分を頼んだのだそうだ。アサリはといえば、川からどっと入って きた真水で全滅。稚貝放流で回復のきざしは見えるものの、2005年4月現在、「アサ リは生きておる、という程度」だ。

なぜこんなにたくさんの流木が?

林業の衰退は全国的な問題だが、宮川上中流域も例外ではない。林業が流域の経済循環の中に組み込まれていた時代が去って山は不在地主が多く、倒木や間伐材が放置され整備が行き届いていない。上流・宮川村での山腹崩壊は、スギ・ヒノキなど植林した林齢35年生の人工林で多く起きたという。手入れが大事な林齢に間伐しなかったため、モヤシのような状態になり山の土をしっかり押さえる力がなかったのだ。

 

漁業者としての実感

伊勢湾は特殊な風土の漁場だ。「海も山も一体」だという実感は強い。二見町漁協では、三重県魚連を中心とした漁民による川の上流域での「漁民の森」植林活動に参加している。自然林に戻していく努力が必要と、植えるのは雑木が主だ。「色々な木があっていい森になる」と漁業長。

海から森を見る

海の生物の食物連鎖の底辺にある植物性プランクトンは、潮や川が運ぶチッソ、リンなどの栄養塩類で成長する。しかしその栄養分も、ミネラル成分である「鉄分」の助けを借りなければ吸収することができない。海水は鉄分濃度が極めて低いが、それを補うのが、森林の腐葉土が生み出す「フルボ酸鉄」だ。鉄分たっぷりの河川水が流入しているかいないかで、その海の植物性プランクトンの発生率は30倍から100倍も違ってくるといわれる。日本で流通 する水産物の78%は外国産といわれる中、自然のメカニズムを生かし循環する自然社会をめざす漁業者の目が森へ、川へと向けられ始めている。


 

二見町漁業共同組合管理経営「池の浦釣り筏」
海苔ジャーナル・エクスプレス

 

「塩田」

伊勢神宮で年間に使われる御塩は約160キログラム。これは神様にお供えしたり、重要なお清めに使うものに限った量 のようだ。仕上がりは三角錐に焼き固められた堅塩で、必要に応じ砕いて用いられる。
入浜式塩田「御塩浜」で、五十鈴川河口部の干満差を利用して汽水を汲みあげての塩田作業が始まるのは、最も気温が上がる毎年7月末から8月の夏の土用。

塩田に敷き詰めた細かい砂の下は硬い土になっている。満潮時に海水を砂場へ引き入れ、砂に海水をまいては蒸発させ濃い塩水・鹹水(かんすい)を集める。これを1.5キロほど離れ、海に面 した「御塩殿神社」へと運んで保管する。8月上旬、煙突もない「御塩焼所」中央にある直径2メートルの粘土のかまどで一昼夜薪を焚き、鉄製の浅い平釜に入れた鹹水を煮詰めて荒塩がつくられる。俵に詰めてにがりをおとした荒塩は保存上の理由と、神宮の御用の都合にあわせ、「御塩殿」で塩を土器に詰めて焼き堅める。

 

「御塩道」

御塩は、つい先ごろまで、8キロの道を役夫が担いで外宮まで運んでいた。その道筋は「御塩道」といわれ、今でも清浄な塩を運ぶ道として、地元の人は葬式などで通 ることを遠慮しているそうだ。

それにしてもどうして、鎌倉時代頃まで御塩殿神社近くにあった塩田を、今の場 所に移したのか。淡水が混じったほうが細かい塩が出来るのは確かとして、便利さよ りも、五十鈴川の聖なる水で御塩を浄めようとする当時の信仰が優先したという説も あって興味深い。

 

神宮の山林「御塩山」と「御杣山」

かつて神宮には、塩つくりの薪を調達するための「御塩山」と定めた山があった。今 でも遷宮で使う御用材は御杣(みそま)山」と呼ばれる専用林で育てられる。当初は五十鈴川や宮川上流域だったが、まかないきれず「御杣山」は木曾へと移った。神宮営林所では大正期に、専門家を迎えて「神地保護調査委員会」を設置。内宮の五十 鈴川上流域にある神宮林(神路山・島路山/5,500ha)で、川や森の保全も視野に入れ た天然林づくりに着手。以来、大宮司以下職員の植林が毎年続けられ、平成25年の遷 宮では約1000年ぶりにいにしえの御杣山・神路山から必要量の約四分の一の檜材が伐 リ出される予定だ。

塩と森・川・海の関係

もうもうとした湯気の中に「登窯式焼塩づくり」の炉と釜がかろうじて見えた。ほんわり香ばしいにおいがする。忙しげに薪をくべていたのは百木智恵子さん。二見浦の旅館「岩戸館」の女将さんだ。今から5年程前、偶然、神宮御塩焼所の人と出会ったことをきかっけに、様々な出来事と縁が「塩をつくれ、塩をつくれ」と百木さんを導いたのだそうだ。やがて旅館の脇に小屋を建て本格的な塩づくりに取り組む。平成9年の塩の専売制廃止を機に、「岩戸の塩」として販売も始めた。使う海水は神宮の森からの伏流水が海中に湧き出ているといわれる辺りから満潮時に汲んでくる。川が運ぶミネラルが、海のミネラルと混じり本物の塩ができるのだそうだ。

百木さんは宮川上流の宮川村から薪をもらい、その代わり塩で返す物々交換をやっている。昔は木材をいかだに組んで海まで運んで端材を薪にして塩を作り、その塩が山へと戻っていった頃を習ってのこと。「すべては循環」。河口の水の色や臭い、混じるもの、魚貝の状態を見れば上流で起きていることの見当がつく。

登り窯式焼塩づくり

近所迷惑になる煙を出さないように、焼却炉メーカーと相談しながらできたのがこの窯。百木さんの陶芸好きがヒントになったオリジナルだ。奥へと三段階に高くなっている炉の上にはそれぞれ約1m四方、深さ12センチ余りの四角い鉄製の釜が乗っている。一番手前、火口のある釜に張られた海水がある程度濃くなったら、ひしゃくで汲んで次の釜に移し、さらに濃くなれば一番上の釜へと移す。その釜に結晶ができ始めたらヘラで返しながら塩に仕上げる。染み出るにがりは焼き上げる前にすくい取る程度。出来上がりの塩はまっ黄色で、次第にグレーになり、しまいに薄いクリーム色になる。これは天候、海水濃度、成分などの違いによるのか、常に変化するのだとか。これで、にがりも入った塩が20キロが出来上がる。

海のミネラルのちから

海からきた生物・人類には海のミネラルがたっぷり必要なのに「食」の変化で補いき れず、本来の治癒能力や活性を失いつつあるそうだ。「よい海水からつくられた塩は 体内にミネラルを補給し、悪いものを浄化します」きっぱりと百木さん。早速購入し て使い始めた塩は、何かこう・・・力がわいてくるような気がしている。

 

二見浦 身体づくりの宿「二見館」

 

 

  死んだ妻イザナミノミコト恋しさに黄泉に追っていったイザナキノミコトは、連れ帰る途中で変わり果 てた姿に驚いて現世に逃げ帰り、海で禊をしてケガレを流し、力を取りもどしたという(古事記)。古代人は大海原が汚穢を洗い清浄にすることを知っていた。塩は海水のエッセンスだから、現代でも、お葬式の後には「浄めの塩」、大相撲では土俵に塩をまく。塩がもつ浄化力を信じてのことであろうし、実際、海に殺菌成分があることや、貝類等が持つ浄化力はよく知られていることだ。

「二見浦海水浴之図」
 提供:「汐湯・おかげ風呂舘旭湯」

観光名所・夫婦岩で知られる立石崎に程近い二見浦は、古くから「清き渚」といわれ、神宮参拝の人々が心身を清めた禊浜だった。江戸末期までのお伊勢参りツアーでは、参拝の後ここで日の出を見るのがセットになっていた。

明治15年(1882)、二見浦は日本初の海水浴場(潮浴び場)として内務省の推薦を受ける。これは泳ぐというより、健康増進の潮浴びや療養の地という意味あいが強かったらしい。絵図を見ると、やぐらの上に海水のタンクを乗せシャワーのように浴びる人、洋館建ての海水温浴場(汐湯)で立ち話する裸の人あり。海辺でムシロを立てているのは物乞いや物売りで、夜はそれをかぶって寝るわけだ。伊勢から遠望する富士山がまたすがしい。

 

旭湯主人・酒徳覚三さん

 

お土産に売っている海水で茹でたタマゴ。殻を通 してちゃんと塩味がついている。

現代銭湯で「汐湯」

二見浦の汐湯を、河崎の町で再現したのは、「おかげ風呂舘旭湯」三代目の酒徳覚三さん。勢田川に面 した旭湯の汐湯は、混ぜものなしの海水100%。海水は毎日朝夕の二回、満潮時にトラックで6トンを二見浦に汲みに行く。夏至(げし)の時は、かつての河崎の舟運をしのんで、川舟で汲みに行くそうだ。

「塩は建物まで喰ってきますのや・・・・」

汐湯を思い立ったのは、河川改修計画で移転を余儀なくされた時だ。汐湯をやっていた二見浦の二見館主人に相談に行ったところ、「あんたは、海の怖さを頭でしかわかっていないよ」と言われたそうだ。塩分で設備が腐食することは予想して風呂は露天にした。それでも3年を経たころには、屋根裏が湯気となった塩で腐食され、錆びが出てボロボロになっていた。塩の威力、怖さを思い知った出来事だった。

おかげ参りを支えた伊勢人の施行の心

昔、地元ではおかげ参りの人々に無償で薬や食べ物などをふるまった。特に「おかげ湯」と喜ばれた風呂の施しは伊勢人と旅人、旅人同士の裸のふれあいの場だったといわれる。酒徳さんのさっぱりと気持ちいい笑顔は、商売っけより、人様に喜んで頂いて、おかげをこうむって、いろんなことを楽しんでやってしまおうと、心を決めたところから生まれているような気がする。

 

「汐湯・おかげ風呂舘旭湯」 勢田川・清浄坊橋前
三重県伊勢市神久1 電話 0596-25-1126
営業時間は正午から零時半。休みは不定期で月一、二回。


このページ作成参考資料

「神宮の御塩」 神宮司庁
「絵図に見るお伊勢参り」 旅の文化研究所
「伊勢神宮の衣食住 」 矢野 憲一・著 東京書籍
「日本汽水紀行」 畠山重篤 文芸春秋
「森は海の恋人」 畠山重篤 北斗出版

 

 


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