宮川河口域の川・町・人

流域案内人と共に歩く 伊勢・二見

  伊勢市駅で「流域案内人・中森巌さん」の包むような笑顔が迎えてくれた。流域案内人とは、宮川水系に関連した流域の自然や歴史、暮らしなどをわかりやすくインタープリート(通 訳・翻訳)してくれる人のこと。宮川流域エコミュージアムにこの独自なボランティア・システムがあると知って紹介していただいたのだ。 この地域には、神宮を核とした歴史があり市井の暮らしがあり、日本5指に入った清流宮川はじめ、伊勢神宮ゆかりの聖なる五十鈴川、舟運で栄えた勢多川が伊勢湾へとそそいでいる。川あるところに人あり。人々と川の関係を求め、「流域案内人」との旅が始まった。

伊勢市から五十鈴川沿いに二見へ

車窓より
   
五十鈴川河口部  
   

五十鈴川の河口部の広さに驚く

早速、車に乗せていただき伊勢湾へと向かう。駅周辺の商店街が閑散としているのは、郊外に大手スーパーが出来て以来のこと。駅前のデパート二軒が閉店し、地方都市の車社会を象徴するような成り行きだったそうだ。

宮川水系五十鈴川の河口部に入る。わずか10キロほど上流にある伊勢神宮を流れる時は、ただただ清く河床浅いせせらぎなのだが、ここでは大河へと変貌し海との境目も茫洋としている。昔はもっと河口部が狭く対岸同士がもっと密接につながっていたようで、川をはさんでその名残が地名として残されている。

それにしても風が強い。これが蒙古襲来を退けた「伊勢の神風」か。このあたりは本 州で最も幅が狭く、伊吹山地・鈴鹿山脈の間から噴出してくる「からっ風」が通 る強 風地帯となっている。

伊勢の真下には日本列島の西半分を縦断する1,000キロの断層「中央構造線」が通 っ ているが、構造線が形成した秩父帯や三 波川帯(さんぱがわたい)の地層を削って流れる川は清流の条件をそなえていること。ダムができて川砂の流出が減り、海からの侵食によっ て昔はどこにでも見られた砂浜が消えつつあるなど。いい間合いで基礎知識を教えてもらう。 中森さんが、昭和5年生まれの元小・中学校の先生であったと知って納得。「教師でありながら文部省に楯突く、落ちこぼれ」であったそうだ。自由闊達、生徒を思い血潮をたぎらせ生きてきた方なのだろう。現在も少年院の子ども達の学習指導やボランティア活動で忙しい毎日の中、時間を作って下さったのだと知った。

御塩浜
   

おおらかなり。御塩浜と御塩殿

海に程近くなった川沿いの道。いきなり開けっぴろげに神宮の塩田「御塩浜」が現れた。道路から見下ろせるこんなところに、古式にのっとった神事の場が、と少し脱力。塩づくりの最中でも見学に来る人は少ないそうで、シーズオフの塩田は芝生化気味。「おおらかなもんですわ」と中森さん。そこから1.5キロほど離れ、外海側にある御塩殿には海から森の中へとヒーリングの風が吹いていた。楠の大木からのショウノウの匂いも混ざってか、静謐な森が香る。ここには塩田から採った潮水から荒塩をつくる作業場があり、太古の姿をとどめた茅葺き屋根の低さが優しかった。神聖な場所がこうして開かれたままあることに日本の文化を感じる。海岸に出て望めば二見浦の岬はおだやかに桜色。しみじみうれしい。

御潮殿 森
二見を望む

 

昔は川が縦横に流れていたせいか、宮川河口部の道路は平坦な大地を細くくねって走っていて迷路のよう。道を尋ねる度に、人の良い奥さんやお爺さんが一生懸命教えてくれる。「人を見たらほっておかれへん」のが伊勢の人。「伊勢のおもてなし気質」に助けられ、探し当てた二見浦の漁師町・今一色は舟が並んで眠ったような昼間の漁港だった。海苔養殖ととあさりで知られるが、今はほとんどが半農半漁という。二見は井戸を掘っても塩分が強い。上水道は櫛田川から、農業用水は宮川から導水しているそうだ。

御園作業風景神様の菜園を垣間見れば・・

二見町溝口で神宮の菜園「御園」に寄り道。ここでは神様に捧げられる野菜や果 物が心を込めて作られている。神宮では神様にかかわる衣食住は自給自足が建前。食では、塩や野菜、米はじめ魚貝の加工・食器類などが専用施設でつくられていることを知った。火に強いといわれる槙垣に囲まれた園内をそっと覗き、黙々と農作業をする白装束の人々を遠望した。日常とはかけ離れた求道的情景。「清浄栽培地につきエンジンを止めてください」の立札、磨き上げられた作業小屋に戒律の厳しさ、奉仕する人々の使命感を垣間見る。

 

ちょっと一服

木札
   
木札  
   

道筋の家々の戸口には、お正月でもないのに木札(しめ札)を付けたお飾りがかかっている。札には「商売繁盛」「笑門」などと書かれ、伊勢市周辺では一年中かけておくのが習慣なのだそうだ。「蘇民将来子孫家門」は、スサノオノミコトを助けた功で蘇民将来の一族が疫病を逃れたことから「私どもはその子孫ですので・・・」と厄除けを願う。今はスーパーで好きな文字のものを買ってくるが、しめ札に当主自ら揮毫している旧家もあるようだ。

鰻の櫃まぶし昼食をとりに立ち寄った「う料理・川広」のしめ札はもちろん「千客万来」。中森さん一押しの「鰻の櫃まぶし」はさらっとしたタレで直焼きした鰻飯。山椒粉やオロシ山葵、青葱を薬味にかっこむも良し、添えられただし汁で鰻茶漬けもご自由にという趣向だ。名古屋の名物だが、その旨いこと。案内人への信頼、益々高まる。伊勢はお客様の多い土地柄だが、もてなすには鰻か寿司が手っ取り早い。昔から鰻屋と寿司屋が多いそうだ。

 

伊勢湾から勢田川「舟参宮」ルートをたどる

かつてお伊勢さんへの道は、陸伝いだけでなく海路もあり、遠州(静岡)や三河(愛知)から伊勢湾を舟で渡り、神社(かみやしろ)から二軒 茶屋まで、勢田川をさかのぼって神宮へと向かうルート「舟参宮」があった。川に入った八丁櫓の漁船は、太鼓や鐘を鳴らし賑やかに繰り込んで来るので「どんどこさん」と呼ばれた。ここまで来れば神宮(外宮)までは2キロ半余りの道のりだ。勢多川は、全長約7kmの川で干満の差が激しく、満潮時に海から逆流する流れを利用して舟は二軒茶屋上流の物資集積地、河崎まで難なくさかのぼることができた。

大湊今昔

古くからの交易港、戦国時代屈指の軍港大湊は、名だたる造船所でもあった。優れた 船大工による造船技術で天下に知られ、秀吉が朝鮮に出兵させた軍船「日本丸」もこ こで造船されている。宮川上流域で伐採し皮を剥いだ木材を、いかだに組んで河口ま で運び、大湊で舟を造るという流れは、昭和20年代まで生きていた。昔は遷宮御用材 を繋留する「神宮貯木場・網場(阿場)」も大湊にあり、遷宮の期間以外は一般 の 使用が許され賑わっていたという。それも陸運の発達で姿を消した。活気にあふれて いた造船所も、中小造船業の衰退でほとんどが廃業。わずかに残る船大工も高齢と なった。宮川と五十鈴川に挟まれ、廃墟と化した三角州は橋一本で内陸と心細く結ば れている。

よみがえれ!神社(かみやしろ)港

神社港舟参宮の玄関口として栄えた町だ。港に係留された伊勢船型を復元した木造船『みずき』。隣に、神社港と国際空港を海上の結ぶ高速海上タクシー『伊勢1号』が仲良く揺れている。のんびり舟参宮を再生する試みと、最短・最速を目指す試み。なんとどちらもNPO法人・神社みなとまち再生グループの運営なのだ。大義だけでなく、実用性があって経済も動く。これが発火点になって、観光ポイントへの道を車でなく船で誘導することが出来たら、川を含めた水上交通 が興隆し、伊勢全体が盛り上がりを見せることも夢ではない。

戦災をまぬ がれた古い町並み・河崎

軒が低くて狭い小路をうねうね走ったら、川に出た。河崎の町だ。とろりとした流れをはさみ、雨風にさらされた瓦屋根、板壁の家が勢多川におでこをくっつけるようにしてぎっしりジグザグと連なっている。右岸が職人街、左岸が商人街。それぞれの生活の匂いがある。人の生活があるから古い家々が生きている。隣の壁は、うちの壁という感じ。中森さんが「隣の夫婦喧嘩を窓越しに仲裁しよる」と言って笑った。 職人たちが生み出した「くりもの」といわれる木の玩具や伊勢春慶は、遷宮御造宮の御残材で作ったのがはじまりだとか。

宮川の河口を訊ねて

宮川の渡しと代垢離(だいごり)

宮川には明治まで橋がなかった。江戸時代、陸路の参宮者はみな、宮川を渡って神都、宇治山田の市内に入った。「お伊勢さんほど大社はないが、なぜに宮川橋がない」と歌われたのも、年に一回はある洪水になす術もなかったからだ。無料の渡しは「大神様のご馳走船」と呼ばれた。 「柳の渡し(上の渡し)」は、現在の度会橋の少し上流にあって大和、紀州、吉野方面 からの利用。宮川橋近くには「桜の渡し(中の渡し)」があって、東国からの参宮客が利用した。この他にも、地元の人や神官が利用する「上條の渡し」 、「磯の渡し(下の渡し)」があった。明和8年(1771)おかげ参りの年の「桜の渡し」絵図には一日に19万9千人が渡ったとある。当時の日本の人口は3,000万人。民族大移動さながらの有り様だったに違いない。 古くここは勅使や斎宮が禊をする所で、庶民もそれに習っていたが、やがては渡し口に住む子どもに駄 賃をやって代わりに川で水垢離をさせる「代垢離」が生まれたと聞いて笑ってしまった。

切実な治水の歴史を見せる「宮川提(みやがわつつみ)

はね堤

はね提

 

 
「松井孫右衛門人柱堤」の石柱  

松井孫右衛門人柱堤

 

 

宮川提公園では、終わりかけた桜の下にまだ賑わっている出店や宴会が見下ろせた。堤に立った中森さんが資料を取り出す。まずは鎌倉時代頃描かれた「宮川下流々跡図」。水の流れが大地を縦横無尽に寸断し、アメーバをトレースしたような線は、どれが川か地面 か見当もつかない。こんな状態の宮川を、今見ている流れに鎮めるにはどれだけの苦労があったことだろう。

宮川に治水を目的に人工の堤を最初につくったのは平清盛といわれ、場所も定かではないが、1177〜1181年の間ではないかと推測されている。1592年には秀吉が築堤を試み、本格的な治水事業が始まった。朝鮮出兵を考える秀吉にとって宮川治水は無縁なことではなかったのだろう。現在残されている宮川提は、本提がおよそ1300メートル。本提から流れに向かい、先端を少し下流にふった長さ50〜150メートル、幅3メート余りの棒状の提を川の中に築く。これが水制の役割をする「はね提」(水バネ築出提)で宮川提ならではの特色だ。堤防は土砂を盛り土して築堤されたが、1644年(生保元年)決壊した堤防修復のために土を掘った跡が度会橋付近に小太郎池として残り、7箇所あったといわれる「はね提」3基が姿をとどめている。

「はね提」は下流から順に、「周防守様御代堤防」(元禄15年/1702築堤)「駿河守様御代堤防」(貞享2年/1685築堤)と呼ばれている。周防守と駿河守は幕府から神領に派遣された山田奉行で、幕府の援助金を調達し堤防を築いた尽力と徳を慕う庶民によってその名が残されたものだ。この二人に限らず、歴代奉行は宮川治水事業に腐心し、身を呈したといわれる。築堤・維持には庶民の拠金や税金も用いられ、苦役があったわけで、治水は身分を越えて共に取り組む切実な願いだった。

一番上流にあるのが浅間提だ。河川改修が進んで今は陸地にある。暮れかけた堤防跡に小さな社があり、傍らに「松井孫右衛門人柱堤」の石柱が立つ。庄屋だった孫右衛門さんは、寛永10年(1633)、繰り返される宮川の氾濫を何としても鎮めたいと、自ら人柱となり堤防の下に生きて埋められた。川石を積んだ碑には、「孫右衛門 西むき 花のここ浄土」(山口誓子)。川はこの西側を流れる。帰りながらも心が残った。振り返れば夕日が桜の中に埋もれていく。

 

中森さんの宮川はなし

「宮川は川石が白い。ほんまきれいなんですわ。」 中森さんは宮川の中流、度会町で生まれ育った。子どもの頃、休みとなれば川に行き、淵に飛び込んで顔と口を洗って朝から晩まで遊んでいたそうだ。泳いで移動できる3キロ、4キロはみんな自分達のフィールド。「かがみ」と呼ぶ箱めがねで川底をのぞき、「鮎しゃくり」でアユをとった。タニシがたんまりとれたときは教科書を下級生に持たせ、自分の学校鞄にはタニシをつめて帰ったり、学校帰りに自然薯掘りの技を競ったこともあった。ウグイは群れをなすので網で獲る。4〜50センチあるものが嫌というほどとれた。

宮川「清流日本一」の理由は?

平成3年、「清流日本一」(国土交通 省「一級河川の水質現況」一位5河川のひとつ)となった宮川だが、2つのダム、農業用水用堰堤(頭首工)1つがあり、下水整備の立ち遅れなど、水質保全は厳しいはずだ。中森さんに、「どうして宮川は日本有数の清流になれたんでしょう?」とたずねる。
要因には、こんなことが考えられるとあげてくれた。

●宮川の大部分が紀伊山地の山間部を流れている。 (宮川本流の約80%、支流も含めると約90%)
●流域の山林が豊かで、保水力、浄化力ともに高い。
●宮川流域は、全国でもトップクラスの多雨地帯である。 こうした地勢的な条件から、宮川は昔から常に清浄な水を豊富に供給され続けてきた 川で、清浄さを保つ上で必要な流速と流量が保たれていた河川だといえる。 その上、
●宮川の上流はチャート、石英片岩、硬砂岩など硬い岩石からできている秩父帯にあ り、そこから流出した転石が中流域で大変良質な礫となって河床、川岸に大量 に堆積 している。この堆積礫の中を川水が伏流水として通 るとき、濾過・浄化される。 また、
●流域の大半が山間部にあるため工業化されている部分が全くない。
●山間部の宮川は、人の生活エリアよりかなり低いところを流れている上、かつては 人口が少なく、直接川とつながる排水溝も整備されていなかった。生活排水は地面 に 浸透し充分濾過されて、川を汚すことがほとんど無かった。 こうした条件から、宮川は川を汚し、荒廃させる要素の少ない川といえるのだそうだ。

憂いと希望と

その宮川も、ダム問題、森の荒廃、生活廃水、地球環境の悪化などの問題で清流維持は難題だ。平成9年にスタートした県の宮川流域ルネッサンス事業のもと、全流域の自治体、市民が協働する宮川ルネッサンス協議会を中心に宮川保全と持続可能な地域づくりが進められている。様々な民間団体の活動も活発で、平成12年、14、15年も清流一位 。流域の連携やビジョンの共有、独自なパワーには感心する。各組織のエネルギッシュな取り組みは、このページの「流域・地域の底力」から各ホームページへどうぞ

◆流域案内人の活動内容や記録に関しては・・・ 宮川流域エコミュージアム
◆域案内人への問い合わせ連絡については・・・ 宮川流域ルネッサンス協議会

 

河崎のまちづくり


町のはじまり

葦の生い茂る湿地帯だったこの地の埋め立てが始まったのは室町時代中期といわれ、これが勢田川を意識した「川を利用するための町」=「川湊」の「まちづくり」のスタートだった。川に石積をし、町の周囲に環壕(かんごう)を掘って勢多川の水を通 し、四方に惣門を設けた戦国時代のまちづくり。環壕は惣堀とも呼び、弥生時代からあった「敵の侵入を防ぎ、排水の役割りもする掘」で、ひとつの集落の形成と武装化に密接な関わりを持つという。

折りしも、鎌倉時代にかけて貨幣流通が進み、庶民の旅が「信仰の旅」として浸透し始め、しかも荒行で知られる熊野詣から、伊勢神宮へと関心が移り始めた頃だ。

伊勢の台所(だいどこ)

庶民のお伊勢参りが浸透し、伊勢が発展するにつれ、河崎は町の中央を流れる勢田川の舟運を利用し、神宮周辺地域(宇治・山田)の物資をまかなう大問屋街へと発展する。江戸時代に入り、地域の人口12万人に対し年間400〜600万の人々が押し寄せる一大消費地をかかえ、町は海路からも入ってくる各地の物資往来の中継点として賑わいをきわめる。

河崎商人のちから

江戸初期には、日本ではじめて地域貨幣として紙幣がこの町でつくられる。参宮者が持参した金貨や銀貨を、伊勢で使用する紙幣「山田羽書(はがき)」に両替する預り 手形のようなもので、商人たちは「講」をつくって保証金を積み立てた。江戸中期以降(1720年代)には、周辺地域の米と魚の卸売り権が認可され、経済中心地となった 河崎はますます力を蓄える。幕府の直轄地であった河崎には、神宮を後ろ盾として大 阪の堺にも似た自治の気風が生まれた。大きな公共事業以外は、町を代表する「河崎町年寄」 が中心となって調整や運営を行うなど、町のシステムづくりがしっかりしていたのだ そう だ。これもやがて不正などが生じて山田奉行の干渉を受け、次第に自治を拘束 されるように なってしまうのだが。

江戸時代の川ざらい
流通の動脈・勢田川だが、泥がたまるので水深を取るために、年2〜3回川ざらい(「浚渫」しゅんせつ)が行われた。作業は、年寄衆が山田奉行に申し入れ、奉行所が入札を行って選んだ請負人が人夫を集めて行った。請負人が提出した作業規約は、喧嘩をつつしみ、舟の航行の妨げにならないよう指定のやり方で浚渫し、土砂は指定の場所に運搬するなどで、守らないと賃金がもらえなかった。

近代の河崎

明治時代の河崎は5つの銀行が集中する商業都市で、昭和初期に問屋で扱われていた商品は米、魚介、醤油、酒、陶器、肥料と幅広く、伊勢の物産を流通 させる役割も担っていた。取引先も全国に広がっていたが、戦後の陸上輸送発達で多くの卸売業、倉庫業、輪送業が閉店、移転し、川を中心とした問屋街としての町の役割は終止符をうつ。排水溝がわりに使われるようになった勢田川は、見る影もなく変わっていった。

勢田川・水質事情

現在、勢田川には伊勢市市街地の生活廃水がそのまま流れ込んでいる。平成5年からは二箇所で宮川からの水を引き込むようになって、浄化の効果 が出ているようだ。しかし、宮川自体、流量回復が課題のひとつで、ダムの発電放流水が熊野側に流されることなどが問題になっているのが現状。三重県では下水道普及の立ち遅れを取り戻そうと、大湊の近くに大規模な終末 処理場をふくむ「宮川流域下水道」を建設中だ。平成20年になれば勢多川の水質は大きく変わるはずと、期待したい。

  干潮
  干潮の勢多川
勢多川を上流へ。干潮でむき出した砂州で舟が日向ぼっこ。
  二軒茶屋
  二軒茶屋
明治天皇もここで御上陸。一軒残った茶屋のお餅は今も人気だ。

勢田川と、あたらしいまちづくり

昭和49年(1974)の七夕水害。伊勢の半分以上が水に浸かるという大被害の中、環壕を掘った土で1メートル余りかさ上げされていた河崎の町は被害をまぬ がれ、無事だった。しかし、洪水を契機に国が立てた勢多川改修計画は多くの建物の立ち退きを前 提としたものだった。1979年、これに対する異議申し立てを契機とし、町並みの再発見と保存運動のうねりが地元住民や、河崎に思い入れのある人々を巻き込んでいく。

2002年、まちづくりの拠点となる「伊勢河崎商人館」が実現。経過の中で123戸が取り払われてはしまったが、残された町並みを守り活用しながら、どう町を活性化していくか。「水の文化の継承」をキーワードに、「伊勢河崎商人館」を拠点とした河崎の新たなまちづくりが始まった。

新・河崎商人

使われてこそ建物も生きる。ここ数年、町では空家になった蔵や町家で開業する人が 増えた。ほとんどはUターン組や、河崎にほれ込んでやって来た人達で、都会生活の経験者が多い。喫茶店、美容院、居酒屋など、おしゃれで垢抜けたセンスは、古いものを大切に使って生かしているヨーロッパの町のお店に通 じるものがある。入ってみた食堂は、おいしくて、値段もリーズナブル。働く人が楽しそうなのがいいし、観光客相手という甘えがなかった。日本各地に倉庫や蔵を再利用した観光地はいくつもあるが、いくらレトロで雰囲気がよくても、それにおんぶした商売ではお客もしらけてしまう。さすが、筋金入りの商いの町は本物の商いで勝負する。生業が成り立って、暮らしがあってこそ河崎の町。いつか必ずまた来よう。

商人館お・もしろ発見

河崎知るなら「伊勢河崎商人館」へ!

江戸時代創業の酒問屋「小川酒店」を再生した蔵・店・住居や古い資料などが見学できる。昔の商人の家は、武家や農家より工夫があったり粋だったり、断然楽しい。蔵を利用したミニショップもある。
運営はこれまで活動してきた市民運動グループを結集したNPO法人「伊勢河崎まちづくり衆」。ここはまちづくりの拠点でもあるわけで、川の駅構想、船参宮の復活。蔵や町家のアピールや持ち主と借り手の仲介をす る「暮らし体験」「仲人」事業。伝統工芸の後継者育成など、そのアイディア力、実 践力がすごい。

NPO法人まちづくり衆/伊勢河崎商人館

流域・地域の底力

宮川流域ルネッサンス事業  三重県WEBサイト内
 宮川を核に、地域の自然、歴史・文化を保全・再生しながら活性化に向けて流域全体で取り組んでいるこの事業の解説。

宮川流域ルネッサンス協議会
 住民、企業、行政が協働して、宮川流域ルネッサンス事業を推進し、魅力ある地域を築くことを目的とする協議会の概要。

宮川流域ルネッサンス円卓会議
 多様な人々・団体・行政等が流域の課題について話し合い情報を共有化し、課題解決 を模索。会議議事録が興味深い。

宮川流域エコミュージアム
 地域全体を博物館ととらえ、住民自身が地域づくりや経済活性化を図る取り組みで、ボランティアの流域案内人が大活躍。

NPO法人まちづくり衆/伊勢河崎商人館

NPO法人・神社みなとまち再生グループ

NPO法人五十鈴塾
 伝統文化から日本再発見!暮らしに関する様々な講座を開講。伊勢の風土のよさ、生 活文化を考えていく場でもある。

伊勢・水の会
 勢田川を軸に、環境問題全般に関する情報交換の場を提供。必要に応じ協力・応援をするネットワーク団体。
  水の会について 三重県WEBサイト内

NPO法人ヒミツ基地研究会
 伊勢湾や川の汚れに愕然としたことが山に目を向けさせた。「ツリーハウス」を作 り、楽しみながら間伐などの活動を行う。  問合せ:宮川流域ルネッサンス協議会

iseまちづくりnet
 伊勢市周辺のNPO、45団体が「まちづくり」を活性化する為に結成したネットワーク。(社)伊勢青年会議所運営。

ザ・伊勢講
 現代の御師として伊勢の再発見ツアー、お伊勢さん125社巡りを行い、伊勢の世古を生かしたまちづくりを考える。
  ザ・伊勢講事務局 TEL.0596-24-3715
  ザ・伊勢講について 三重県WEBサイト内

NPO法人二見浦・賓日館(ひんじつ)の会
 二見浦にある、伊勢神宮を訪れる賓客の為の建築された有形登録文化財「賓日館」を 拠点とするまちづくり。
 問合せ:TEL.0596-43-2003

度会の真水を守る会
 自然環境保護のための調査・学習会、水源保護のための請願活動、宮川流域本町内の水質調査・水辺の調査活動など。

宮川清流塾
 東大月尾教授(塾長)が全国で実践する地域づくり「民間主導の僻村塾(へきそんじゅく)」を宮川に結成。
 問合せ:TEL.05988-6-2502(吉田本家)
  宮川清流塾について 宮川流域ルネッサンス事業サイト内

森と水を守る会
 宮川の水「森の番人」販売を通じ他地域とのネットワーク作り。自然環境保護運動を 展開中。合併浄化槽設置助成なども。

■参考サイト

中部国際空港を拠点とした伊勢湾・三河湾内の舟路ネットワーク整備への提案
 難波 匡甫(Lueur場所と空間の研究所代表)

「おかげ様のまちづくり」浜田益嗣(赤福社長)とおかげ横丁
 松下政経塾月刊誌「地域から日本を変える」バックナンバー

NPO法人伊勢志摩NPOネットワークの会 
 三重県のNPO支援体制との協働からスタート。


このページ作成の参考資料
「神宮の御塩」 神宮司庁
「神宮の稲と野菜・果物」 神宮司庁
「絵図に見るお伊勢参り」 旅の文化研究所
「伊勢神宮の衣食住 」 矢野 憲一・著 東京書籍
「宮川流域ルネッサンス事業・動き出す清流」 宮川流域ルネッサンス協議会・三重県
「宮川流域ルネッサンスビジョン・基本計画」 三重県
「宮川流域ガイドブック」  宮川流域ルネッサンス協議会 700円
伊勢の情報誌「伊勢人」 伊勢文化舎
「勢田川環境マップ」 伊勢・水の会編
「伊勢河崎まちなみ散策絵図」 NPO法人まちづくり衆
「伊勢河崎商人館」パンフレット NPO法人まちづくり衆

 


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